ありーのだいありー

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ありーのだいありー

いろいろ書いてましたが(笑)、今はただの旅日記です。

「嫌い」をなくしていった先に | 感性の大切さ

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こんにちは、ありーです。

前日紹介した「嫌い」をなくすための5つの方法が思ったより反響があってびっくりしました。バズるまではいかないですが、その日のPV数はいままでで一番高いという、以外と何気なく書いた記事が見られたりするんだなーと実感したのでした。

さて、今回は以前の記事に関連して、自分の可能性をどのように広げていくのかを考えてみました。しかし突き詰めすぎると可能性は広がる一方で、自分を見失う、もしかしたら悟りを開いてしまう危険性がある笑 それでは考えていきましょう。

 

 

自分の価値観をめちゃくちゃ広げ、可能性を切り開く

さて、上記で紹介した「思考の転回」、つまり自分の先入観を一度疑い、自分が嫌いなものでも「ユニーク、刺激的」と考えることで「それもありだな」と思えるのです。これをかなり忠実に適応すると、自分の可能性がめちゃくちゃ拓けてきます。どういうことか。つまり、「それもありかもしれない」「誰かが熱中しているものには何かしらの価値がある」と考えることで、自分が信じている価値と範疇が広がってくるわけです。

例えば「世界はすべて必然性がある。因果関係によって成り立つ」という価値観があるとします。ここに「世界はすべて偶然の産物」であるという価値観を認めたとしましょう。実際に実証主義や科学の世界では前者の立場が優勢でありますが、哲学などでは後者のような意見もあるわけです。そう考えると、自分の価値観はめちゃくちゃ広がり、細く短い自分から世界に伸びる枝は、太く長くなります。ここまでは良いとしましょう。

 

価値観を広げすぎると、逆に自分の軸を見失う

しかし、それも行き過ぎると自分の可能性を広げる共に、自分を見失うというパラドックスに陥ってしまいます。だから、人間は新しいものに触れると不安に陥ってしまいがちなんです。例えばこの前の大阪都構想住民投票でも、半分以上の人が、特に年代の高い人たちが反対票を投じたとみることができます。しかし、人間100年生きれると考えるとまだぼくたちはその20%しかいきていないんです。だったら、価値観を固めるよりも、可能性を広げることに賭けてみたほうが残りの80%を有意義に生きれるのではないかという気がしてきます。それがたとえ自分の価値観を揺るがす不安なものっであったとしても。

自分の価値観を揺るがす、「嫌い」なものを取り込み続けていくと、最終的には世界そのものを取り込むことになります。ちょっと図解してみましょう。以下のように自分の好みや価値観はの枝は細く短い、スパイク型の状態です。これが現在の自分の領域でアイデンティティと言えるでしょう。(図ヘタクソでごめんなさい)

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しかし、そのはざまにある自分にとってネガティブだとされる窪んだ部分を自分に取り込んでいくと、仮に世界を円に例えると、自己の領域はどんどんそれに近づいていきます。細く短い枝が太く、長くなり最終的には円になります。なんでも「アリだ」と考えられるわけですから。そうすると、自分のアイデンティティであったスパイクの尖った部分が次第になくなり、世界と自分が同一になっていきます

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そうすると、自分の可能性を開けば開くほど、つまり円としての世界に近づくほどに、自分を形成していた特徴、つまりスパイクの部分を失っていくことになります。まあこれはイメージしやすいことだと思います。いままでロックが好きで、それこそが自分のアイデンティティだったのが、クラシックも違う観点からしたらありだ、R&Bもありだ、テクノもありだ、となると、あれ、おれはいったい何が好きなんだろう。自分を特徴付けるものは何だろうという風になってしまいます。

 

今はおもいっきり広げる段階

しかし、いまはこれでいいんじゃないかと。そうやって100年かけて見つければそれでいいんじゃないか。現時点で自分を規定してしまったら、残りの何十年間それに縛られてしまう。それならば、自分を見失いつつも、世界と積極的に関わるほうが面白く生きれるんじゃないかと。自分の「好きなこと」は単なる思い込みです。一旦先入観を排してしまえば、思考の転回をしてしまえば、「なんだってありだ」と思えるんです。自分の価値観に縛られないで生きていくのは不安です。しかしそれこそが自分の可能性を無限に拓いていくんだ、と考えると、なんだか達観した気分です。もはや悟りを開いています。そして、これこそが人生をより充実させるんじゃないかと強く感じています。

 

「好み」でなくて「強み」が大事?

さて、では自分の「好み」が捉え方次第でいかようにも変化し、「嫌い」なことでも思考の転回によって自分に取り込んでいけるのなら、自分のアイデンティティななにによって形成されているのかという問題が生じます。おそらくそれは人生経験による自己の特徴でしょう。強み・弱みです。「好み」は考え方次第でいかようにも変化できますが、「強み」は考え方を変えたとしても、どうやってもうまくいかない部分があります。僕はイノベーティブな発想は比較的得意ですが、細かい淡々とした作業はかなりニガテです。注意力散漫なので。しかしこれはなかなか変えにくいものです。変えるとしたら、経験を積み重ねることによってしか変えることができません。それならば、自分の軸はこの「強み」に依存すればいいのか?

 

「強み」は得た経験によってしか分からない

それでは、自分の「強み」をみてみましょう。自己分析をすれば何が強みで、何が弱みかを自覚することができます。そして、これこそが自分を最もらしくするものなのでしょうか?僕はこれも違うと思います。いい線はいっているのですが。なぜかというと、強みは経験によって変化します。そして、自分の強みと弱みを分析し、論理的に自分のキャリアや軸や生きる方向性をたてたとしても、他の経験をすれば強みは変化するかもしれないし、しないかもしれない。なにしろ経験によってしか得られないのであれば、将来の経験によってどのような強みに変化するかは分からないのです。もし時間が無限にあったとしても、自分の遺伝子レベルの特性などによって、全ての部分をカバーできるとは限りません。下の図のように、自己の領域と世界の領域にはズレが生じるでしょう。

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そう考えると、自分の強みを分析的に把握し、それが自分を形成するもの、とかんがえるのは、いい線はいっているのですが、絶対的な回答にはなりえないと思います。さて、それでは何が一番いいのでしょうか。

 

理性よりも感性、相対よりも絶対。

自己の好みは考え方で変えられる。自分の強みを把握するのは限界がある。ならば本当の自分はどうやって見つけることができるのか。これは感性に頼るしかないのかな、と思います。自分の「好み」も感性に属すると一見思いがちですが、世界の全てを自分に取り込んだとしても、何か絶対的に「これ!!」と思える非論理的な衝動があるはずです。「ピン」と来る、とでもいいますかね。どれだけ他人の意見を聞いたり、自分で合理的に評価をし、Aのほうが良さそうだとわかっていても、どうしてもBを選んでしまう、そんな衝動が。

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この感性と「好み」は似たようで違うと思います。「好み」は相対的にとらえられるのに対し、「感性」は絶対的だからです。どれだけ好みの領域を広げても、それ「アリだね!」といえるようになっても、動かせない部分です。

 もちろん、「好み」も「感性」も文化・時代という環境によって大きく影響を受けています。人間は完全に独立した自己にはなりえません。「好み」は考え方によってそれを大きく乗り越えることはできます。つまり思い込みや固定観念の集まりなので、それを崩してしまえば何にでも考えられます。しかし、「感性」は、いままでの経験や環境vs知覚の相互的な駆け引きによって無意識的に培われていくものだと思います。だとしたら、自分は根の深いところで環境に影響を受けてるもんなんだ、それが自分の1部でもあるんだと割りきって、その無意識レベルの選択をなるべく意識上に出す回数を増やし、さらに経験や環境を変えたりしながら、常に磨いていくという方法がありなんじゃないかと思います。そうすると、一部分では時代や文明の影響を受けている、自分を形成している何かが見えてくる気がします。

簡単にいうと「好み」のレベルでは相対的なので100〜1の点数によって差がある。そしてその点数も評価方法(考え方)を変えれば全然変わる。「感性」のレベルでは絶対的なので1か0かで、自分のいままでの環境や経験とそれに対する知覚がフィルターの役割を果たして0か1かのどっちかに振り分けてしまう。そのフィルターがどんなものであるかを自分はまだ理解できない。それをなるべく可視化していって、フィルターの網の目の大きさや形がどうなってるのかを理解できればそれが自分を形成しているものじゃないか、てことです。

まとめ

いま、ぼくは「嫌い」を自分に取り込み、ひたすら「好み」の範疇を広げていっています。なるべく嫌悪感を感じたりするものでも接するようにしています。そして、自分の強みもしっかり分析しています。その上で、いまは「感性」を磨いている最中です。難しいです。

例えば小説を選ぶときに、いろんなサイトをみてみます。そして本屋にいってみて、こういう作風は読んだことがないなー、とか、この作家は嫌いかもしれないけどひょっとしたら刺激的かもしれない、とか考えて選んでます。でも、一度「それもあり!」ってなると、なかなかこの絶対的なものっていうのが見つかりません。こう、「ピーン!」とくるものがなかなか。

最近出会った本で「これ!」ってのがあったのは、伊坂幸太郎の『チルドレン』。この人だれだ?ミステリーとか読まないからせっかくだし...と思って読んでみたらビンゴでした。他の作品が嫌だからこれ、こっちが優れているからこれ、っていうよりは、もう絶対的にこれなんです。伝わりますかね?笑 

例えば芸術とかって、言語化できないものを扱う領域だってよく言いますが、それに近い感じがするんですよね。こういう感性のセンスを磨くのが一番大事なことだと感じています!

これこそが、ひたすら可能性を開くために「嫌い」をなくして自分を見失いそうになり、不安に陥りながらも、それでも絶対的な自分を形成しているものを見つけられる概念じゃないかと期待しつつ。ひょっとしたら間違っている可能性は大いにありますが、現状はこの考え方で生きていこうと思います!

 

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